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ファンドの参入に思うこと
 労働者が「ファンドの参入は労働者の処遇切り下げを招く恐れがある」ことを理由に当該「ファンド参入」への反意を表明するとき、これに対してファンド側は「資本の論理」を掲げて自ファンドの参入の正当性を主張するということが、散見されます。
 このことについて思うことを書いてみます。

 「従業員処遇」は「雇用契約」のなかで規定されます。 「雇用契約」は、「原始的には」民事契約のひとつのかたちですから雇用契約の根拠法は「原始的には」民法であり、従業員処遇も「原始的には」この根拠法 = 民法で規定されます。

 先ほど来、「原始的には」というエクスキューズを多用していますが、これには理由があります。
 仮に[ 雇用契約 ⊂ 民事契約 ]の関係が完全に成立し、従って従業員処遇も民事契約の根拠法である民法に完全に捕捉されるとした場合、どういうことが起こるでしょうか?
 例えば雇用契約の解除について考えてみましょう。 雇用契約が民事契約であるならば、期限の定めのない雇用契約はその契約に係る一方の意思により、いつでも解除できます。 被雇用者(従業員)は、その会社を辞めたくなったら、いつでも辞めてよい。 これは職業選択の自由や奴隷労働の禁止の観点から、何ら問題ありません。 しかし雇用者(会社)も、その従業員が要らなくなったらいつでも解雇できることになってしまいます。
 民法は、民事契約の当事者が対等であるという前提に基づいて立法化されています。 しかし、こと雇用契約について言えば、契約の当事者である雇用者と被雇用者のあいだには、その力関係において大きな不均衡があります。
 学校を卒業して新卒者として企業に就職する。 結果として中途退社を選択する場合もあるだろうけれども、少なくとも就職する時点においては、多くの新卒者がこの会社で定年まで働くことになる(かも知れない)と漠然と考えていることでしょう。 ところが、そろそろ転職可能な年齢も過ぎようとする40歳代のある日、その一生を委ねた会社の側から一方的に雇用契約の解除を申し渡されるということが許されるとしたならば、この国の勤労観・就労観はその前提が完全に崩壊します。
 そこで、そもそも「対等でない」雇用者・被雇用者間の契約については、被雇用者保護の観点から民法の規定を超える法制が必要と考えられた。 これが労働三法をはじめとするさまざまな労働法制なのです。 民法の規定を超えて立法化されたわけですから、労働法制は民法に対する「超越法規」である、と言えます。
 さらにこの労働法制は、民法に対する超越法規であるばかりでなく、例えば会社分割法制に対する労働契約承継法のように、商法に対する超越法規ともなっています。
 これらの超越的な法制により、前述の解雇の例で言えば、労基法の定めるところにより企業が従業員を解雇しようとする場合には少なくとも1ヵ月以前にそれを予告するか(解雇予告)、それが不可能な場合には少なくとも1ヵ月分の賃金を支払って(解雇手当)、解雇する必要がありますし、また最高裁判例によればこの方法による解雇であっても相応の条件(整理解雇の4要件)を満たしている必要があります。
 雇用契約は「原始的には」民法に規定されるけれども、今日的法制下では、たとえ民法の定めに沿った契約であったとしても、その超越法規である労働法制を下回る契約部分については無効なのです。

 冒頭述べた、ファンドが主張する「資本の論理」は、言うまでもなく商法・民法など「企業法制の論理」ですね。 それに対し私たち労働者は、それらの超越法規である「労働法制の論理」を対置させて反意を示しているのです。 それに対して再び「企業法制の論理」を振りかざす。 これはおかしい。 超越法規の論理に対して「超越された」法規の論理をもって反論するというのは、論理的に破綻していると思いませんか?

 こんな七面倒臭い理屈をこねずとも、私たち労働組合に組織された労働者たちは経験的に、労働者処遇が企業法制に優先して保護されるということを知っています。 労働者が就労するうえで抱える様々な課題や悩みを、労働組合がその都度、労働法制の持つ超越性を背景に解決してきたことにより、もはや労働者処遇の企業法制に対する優越は「論理」ではなく自明な公理、その場の「空気」となっています。 換言すれば、労働法制が企業法制に対する超越法規であることは、もはや「済んだ論議」なのです。
 その、すでに済んだ論議を、今更ながら「資本の論理」とやらを掲げて蒸し返す・・・私たちはウンザリなんです。 例えて言うなら、会議に1時間遅れてやってきて、定刻から出席しているメンバーたちの間ではすでに終わった論議をギャースカ声高に喚きまくって、時計の針を1時間巻き戻すようなヤツ。 KYな困ったクン。 あのギョロ目のお坊ちゃまを、私たちはそんな目で見ているのです。
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| 社会・政治・経済::労働運動・労働組合 | 02:15 PM | comments (0) | trackback (0) |










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