「石水喜夫『ポスト構造改革の経済思想』」なる書物を読んで以来、わきたはここ最近、ケインズの思想と理論に傾倒しています。 労働運動に関わる者として、格差社会の進行とそれを是認する政治・経済思想に反論する「理論武装」の糧として手にした同書でしたが、そこに展開されていたのが、ケインズの系譜を引く思想と理論だったのでした(この書籍についても書評を起草すべく、現在2度目の精読中です)。
「ケインズ『一般理論』」は少し敷居が高くて読むのを躊躇している「ヘタレ」ケインジアンのわきたですが、近い将来ケインズリバイバルブームが到来すると確信しています(まだその気配はありませんが・・・しかたありませんよね、だってほんの数年前までのコイズミ独裁政権下の日本では、ケインズなんて口にしようものならソッコー「アカ」呼ばわりされたんですから(爆))
さて、同書のなかで、「格差の拡大が、教育や学歴を媒介として進行していく」という「新しい現実」を社会学の切り口で分析した、と紹介されているのが、本書「佐藤俊樹『不平等社会日本 - さよなら総中流』」です。
日本の社会学者の共同的取り組みとして1955年以来10年おきに実施されている「社会階層と社会移動全国調査」(SSM調査)という大規模な調査があります。 本書では、このSSM調査による膨大なデータの綿密な分析をとおして、日本における上流階層「ホワイトカラー被雇用者で幹部社員」(W雇上)について、親が「W雇上」でない者の「W雇上」への流入や、親が「W雇上」である者の「W雇上」外への流出が近年遮断されており、この階層の固定化が進行している、ことを指摘しています。
その難解なデータ分析の部分は2行おきに読み飛ばしたとしても、以下のような示唆に富む指摘がなされていて、わきたの新鮮な驚きを誘いました。
日本の社会は、上位階層に位置する人間が、自らが上位階層にいることを階層固定化の結果(=親のお陰)とは認識せずに、自分の能力と努力の結果であると錯覚する階層社会である
例えばイギリスのような社会では、上流階級に生まれた者は自らが上流であることを「自分の能力と努力の結果」などとは考えていません。 そういう家柄に生まれたから上流階級にいるのだ、ということを良く自覚しています。
自分の「身の程」を良く知る人間は、身分相応の人間となるために良く精進し、自らの中身がその身分に相応しいものとなるよう努力を惜しみません。
イギリス社会は日本以上に階層社会ですが、こういう上流階層で構成される階層社会は「健全な」階層社会だと言えます。
いっぽう、日本で近年進行しつつあるような階層社会では、均質な初等・中等教育が国民に行き渡っていることも手伝って、上位階層にいるものがそのことを「親のお陰」と認識しないまま、その地位にいます。 実際には、親が「W雇上」で経済的にも情報的にも豊かであるから、その子に豊富な書物を買い与えることができ、勉強部屋を与え得、塾・予備校に通わせて、大学やその先の勉学経験を積ませてやることができるのです。 その子らが親と同じ「W雇上」にいられるのは、もちろん本人の努力もありますが、大きくは親からの遺産によるものなのです。
本人たちがそのことを認識せず、上位階層にいることの一種「原罪」的な責務やモラルを意識しないでいるような階層社会は、非常に「不健全」です。
この指摘を読んだとき、ある人物のことが思い出されて、思わず大きく頷いてしまいました。
ジバン・カンバン・カバンは言うに及ばず、その顔の造作まで
親父から譲り受けて国会議員になったクセに、自らが率いる政党の政策として「小さな政府」「活力重視」を掲げて福祉より
自助努力、所得再分配より
自由競争をイケシャアシャアと主張する、あのミッチーの倅 ・・・
結果平等と機会平等の違い:結果平等の検証は実時間で行えるし、不平等だった場合の是正も即時可能だが、機会平等の検証はその結果を待ってからでないと行えないから実時間的でなく、従って不平等だった場合の(機会の)是正は不可能である
多くの方がそうであるように、わきたも「平等」のあり方としては、「結果平等」より「機会平等」のほうが望ましいと考えてきました。 しかし、本書の指摘により、少しだけ考えが変わってきています。
結果平等と機会平等では、単に平等の「切り口」が「結果」であるのか「機会」であるのかという違いに留まらない大きな違いがあると、本書は指摘します。
結果平等、例えばAさんとBさんそれぞれの年収の間で結果平等が成り立っているかどうかの検証は、即座にできる。 単に互いの年収を較べてみれば良いのです。 その検証の結果Aさんの年収がBさんのそれより300万円多かった、即ち結果平等が成り立っていなかったとして、その「不平等」を是正することも簡単です。 AさんからBさんに150万円、金銭を移動すれば良いのですから。
しかし、機会平等の場合はどうでしょうか? まず、その「検証」からです。 AさんとBさんが生まれ育った家庭環境や学んだ教育環境は、本人たちがその生育過程や教育課程にある間は、それが機会「平等」であるかどうか検証できません。 仮に両者の教育環境に明らかな差があったとしても、それが原因で将来の年収格差を生じさせるかどうかは、その時点では不明だからです。 両者が育ち上がって、互いの年収(=結果)に300万円の格差が生じたとき、両者の育った環境(=機会)との因果関係があるか否かを検証して初めて、機会平等であったかどうかが検証できるのです。
次に、その「是正」。 検証した結果、Aさんは豊かな教育環境に育まれ、いっぽうBさんはそれほどでもなく、そのことが両者の年収の差に繋がったことが判明したとします。 しかし時すでに遅く、もう両者の機会「不平等」を是正することはできません。 過去に遡及してBさんの教育環境を整えなおすことなど、タイムマシンでもない限り不可能です。
本書は「結果/機会」平等の大きな違いを挙げ、「機会平等」主義を採るのであれば、その「機会」が平等ではなかった場合には「結果」段において是正すること = 「所得再分配」のしくみを設けなくては、著しい不平等を生じる、と指摘するのです。
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4・5年ほど前までは、日本社会における格差拡大についての論議は、その真偽が論戦の中心となっていました。 それが現在では、格差拡大が「ない」とする声は静まりつつあり、論戦の中心は(格差拡大は「ある」として)その是非に移ってきています。 その論議の変化に、本書も一役買ったものと思っています。
そして、格差の拡大のみならず階層の固定化も進行しつつある、との本書の指摘は、格差拡大の是非論争にも一定の方向を示すことでしょう。
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書評 | 08:22 PM |
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